学生時代は懸賞小説に応募したこともある文学青年だった。
「作家では食えないけど、もの書きになりたくて」、毎日新聞記者に。
外信畑が長く、初代ベトナム特派員、ニューヨーク支局長などを経て、西部本社編集局長。
1983年に取締役としてRKB毎日放送に移籍した。
開局40周年を迎えた1991年6月に社長になった。
信条の「文(表現)は人なり」は、ペンが映像に変わっても変わらなかった。
「常に自分を磨き、自戒し続けることが大切。映像はインパクトが強いだけに、より表現に心しなければ」と語っていた。
「報道番組は新聞に負けないように取り組む。ドラマの制作スタッフを抱えるのは経営的には負担だが、これからも中央に負けない番組を自主制作してゆきたい」。
見ごたえのある番組を届けることが、40年間育ててくれた地域への恩返し、と心掛けていた。
福岡市の埋め立て地「シーサイドももち」への本社移転を決めた。
福岡市の都心・天神から近い、約1万平方メートルの現本社用地の再開発が注目を集めた。
「最大の財産を最大限に活用するために、組織的に検討を始める」と、社運をかけた計画に取り組んだ。